私のつとめる病院(真生会富山病院)の理念には「自利利他」の精神が謳われています。自利利他とは、「他人を幸せにする(利他)ことが、そのまま自分の幸せになる(自利)」ということです。
この言葉は元々仏教に説かれていますが、欧米の医学・倫理学の分野でも同様の考え方が論じられてきました。今回は、「利己主義と利他主義」の関係を探った論文をもとに、この理念について考えてみたいと思います。

利他主義と医療
利他主義(altruism)は、長い医学の歴史の中で医療従事者と強く結びついてきた考え方です。
利他主義は、古代の『ヒポクラテスの誓い』の中核をなすものですし、医学教育の基礎を築いたウィリアム・オスラーは『平静の心 (Aequanimitas)』という本の中で「医学という職業は、その特異な恩恵性によって他の職業と区別される。医学だけが、神のような堂々としたやり方で慈善活動を行い、真にプロメテウスのような贈り物を自在に配る」と述べています。
昨今のコロナ診療でみられるように、リスクを伴うにもかかわらず感染症の人のケアに傾倒する医療者の行動は、医療を「その徳のある行為によって動かされる道徳的な事業」として理解することで説明・納得されています。
これらの利他的な行為は、身体的な不快感や予測できない副作用、心理的なストレスを伴うことがあります。また利他的な行為によって得られる報酬は名目的なもののことが多いのです(例えば、献血したときに得られる感情的な満足感など)。
利他的な志向が薄れている医療界
医学生は、利他的な価値観、奉仕の気持ち、そして患者の苦痛を和らげて治癒を促したいという思いから医師を目指し、医師という職業に惹かれます。
しかし、このような志を持って医学部に入った後も、学年が上がるにつれて、あるいは医師として経験を積むにつれて、利他的な気持ちが薄れていくことが複数の調査で報告されています。
また、医学生や医師が「燃え尽き症候群」となってしまい、利他的な思いが薄れてしまう事例も多く報告されています。医師の燃え尽き症候群は、感情的な疲労、思いやり疲れ、脱人格化、達成感の低下などの症状があり、心身の健康状態を悪化させます。医療界全体の視点で見ても、医療従事者の燃え尽き症候群はケアの質の低下、医療ミスの増加、患者満足度の低下をもたらします。
燃え尽き症候群は医師だけではなく、医学生にもあると言われています。医学部での教育は、事実に基づいた知識に焦点を当てますが、その反動として感情を切り離すことを促してしまい、それが一因となっているとも言われています。
利他心の薄れへの対処は?
このような利他心が薄れてしまう問題に対して、「プロフェッショナリズム」と「ウェルネス」という2つの考えで対処をしようと試みられています。
米国内科学会のプロジェクト・プロフェッショナリズムでは、「利他主義はプロフェッショナリズムの本質である」と述べ、プロである医師は利他的でなければならないという考え方によって利他心を引き出そうとしています。
また、ウェルネスとは、私たちが心身病気をせず健康に幸福に日々を送る為の活動をいい、そのためにはワークライフバランス、ライフスタイル、メンタルなど、精神面と肉体面からの総合的なアプローチが必要であるという考え方です。
しかしながら、こうした取り組みが行われているにもかかわらず、状況はなかなか改善しません。現代の医療では、利他主義そのものを放棄すべきという声さえ聞かれるほどです。
ここで必要とされているのは、医療職における基本的な利他の価値観を放棄することではなく、医療における利他主義の意味を再評価し、学生や医師が医療という職業において持続的でやりがいのあるキャリアを歩むために、利他的なケアを提供できるような枠組みを構築することなのです。
利己主義と利他主義
そもそも、利己主義(egoism)と利他主義(altruism)についての哲学的議論は、古代ギリシャの哲学者アリストテレスやプラトンの時代から続いています。
アリストテレスは自己愛の優位性を論じ、「利他主義は自己愛から派生するものだ」としました。また、プラトンは、「正義の概念は道徳的義務ではなく、完全に利己心から生まれるもの」としています。
時代は流れて、ルネサンス期以降の哲学者の間では、「人間はエゴイスティック(利己的)であり、他者への関心は自分への関心から広がる」という考え方が主流でした。
生物学者であるダーウィンは、社会的な行動をする昆虫が集団のために自分を犠牲にする様子を観察したとき、利他主義が「各個体が自己保存のために利己的に行動するという自然淘汰の理論に反する」ことを認識しました。
これらはみな、利他主義と利己主義は相反するものという捉え方をしています。
利他主義≠自己犠牲
利他主義を英語で言うと「altruism」ですが、これはフランス語の「altruisme」を語源としており、哲学者のオーギュスト・コントによって作られた言葉です。コントは著作の中で、利他主義を「他人の幸福度を高めることを究極の目的とする動機・状態」と定義しています。この定義の中に自己犠牲は含まれていません。
つまり、利他的に行動した結果として自分も利益を得ることは、利他主義に反するわけではありません。「他者を助けることが自分にも利益になる」——そのような関係は十分に成立するのです。
ESIAモデルとは?
今回参考にした文献では、ESIA (Enlightened Self-Interest in Altruism)モデルを取り上げています。
Enlightened Self-Interest in Altruismを直訳すると「利他主義により啓発された利己主義」となりますが、いったいどういうことでしょうか。
ESIAモデルでは、利己主義と利他主義が絡み合い行動の原動力となるとされています。ESIAモデルのアプローチによれば、集団の利益は自己の利益にもなります。
自己の欲求が満たされると、人は他者に奉仕することができます。他者への奉仕は、達成感、誇り、そして相互接続性をもたらし、深い報酬を得ることができるので、これは自己利益となります。
これは、利己主義と利他主義が対立するものであるという歴史的な見方から大きく転換した考え方です。
「啓発された利己心」は1835年に出版された『アメリカのデモクラシー (Democracy in America)』の中で、アレクシ・ド・トクヴィルが「正しく理解された利益の原則」として初めて述べたものです。
トクヴィルは、「人間は同胞に奉仕することで自分自身にも奉仕しており、善を行うことこそが自己の利益となる」と述べ、コミュニティへの貢献が同時に自己の利益にもなるという考え方を示しました。
そして、人間がより徳を積むことができるように導く努力をすべきであり、それにより自分が恩恵を受けているグループやコミュニティの福祉のために、自分の時間や財産の一部を犠牲にする動機を持つことができるとしています。
ESIAのフレームワークを医学部の正式なカリキュラムに組み込むことで、利他主義の根底にある原動力についての教育、実践を通じた利他主義の育成、自己利益と他者への奉仕の整合性の評価などが行われるようになります。
ESIAは、苦しい自己犠牲ではなく、医療従事者としての自己実現を学生に促します。
利他主義を育む医療における自己利益には、
- 知的発達への欲求
- 奉仕への敬意と評価
- 専門家グループや仲間内でのメンバーシップと帰属意識
- 最大限の仕事のパフォーマンスを可能にする心身の休養と回復
- リフレッシュして仕事に復帰するための仕事以外のことへの興味
- ポジティブな職場環境
- 刺激的なメンター
- 応答性の高いリーダーシップ
などが挙げられます。そしてESIAによって、学生は自分自身の長期的なキャリアの満足度を高めるために何をすべきかを考えるようになります。
ESIAがウェルネスプログラムと異なるのは、学生個人のためだけではなく、患者、医療チーム、施設、医療システムの利益のためにそれが行われるという点です。そして、“医師であることで何が得られるのか”を問いかけます。
ESIAモデルの事例
ESIAの事例として、ボランティアの学生が運営する診療所におけるESIAについて種々の報告がなされています(アメリカではこのような学生が運営する診療所が多くあるのだそうです)。
医学生は、診療所での仕事量が多かったりなどして、強いストレスを経験し、それが不安やうつ病につながることがあります。そのような状況において、ESIAアプローチによって学生は自己犠牲ではなくボランティア活動による自己利益を見いだすようになります。
診療所でボランティアをすることによって、さまざまな教育機会が得られます。臨床スキルを学ぶだけでなく、リーダーシップの役割を担い、学ぶことができます。また、専門家間の連携や医療システムについての理解を深め、患者を擁護することを学びます。
さらに、ボランティア活動が自らの目的意識とのつながりを持ち、全体的な幸福感を向上させます。一方で、ボランティアを通して医療を受けることができない弱者にケアを提供することで、地域社会に貢献しています。
診察を受けた患者は、それによって前向きな経験をし、じゅうぶん満足していることが報告されています。
このような学生と患者のポジティブな経験は、長期的な利益にもつながる可能性があります。ボランティアをした学生は、脆弱な人々への奉仕に興味を持ち、プライマリーケアにおける将来のキャリアへの関心が高まったとの研究報告もあります。
利他主義は、気分を高揚させ、目的意識と幸福感をもたらすという点で、それ自体が自己利益となります。ESIAは、自己の利益を適切に導くことで、利他主義を持続可能なものにするのです。
「他人を幸せにすることが、そのまま自分の幸せになる」——冒頭でご紹介した真生会富山病院の理念「自利利他」は、単なる精神論ではありませんでした。ESIAというフレームワークは、その考え方を哲学的・実践的に裏付けるものといえるでしょう。
参考文献:
Vearrier L. Enlightened Self-interest in Altruism (ESIA). HEC Forum. 2020; 32(2): 147-161.
doi: 10.1007/s10730-020-09406-8






